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2016年8月4日木曜日

腐儒の言語学(77)

魚机





Q.「言語の恣意性」が興味深い。

しかし、大人になってから、今日から「tsukue=魚」と決まったら、頭の中でパニックをおこすのではないか? 


A.別に。

まあ、アタマの切り替えのよい人と、わるい人は、いつでもいますから。

あまりよい例ではありませんが、以前、特殊浴場の名称が全国的に変更された時には、何のトラブルもパニックもありませんでした。

むしろ、「パニックをおこすのではないか?」と思えるアタマの方が興味深い。 




2016年8月1日月曜日

腐儒の言語学(41)




魚机



Q.「tsukue」の音で表されるのが「魚」だと言われ続けたら、子どもはそう信じるのでしょうか? 

そうだとすると「かゆい」と「いたい」をあやまって覚えたらとんでもないと思いました。 




A.社会の中に「tsukue」=「机」という約束事があるから、我々はそう使います。

約束がかわって、「tsukue」=「魚」になったら、もちろん子どもはそのように習得します。

指示するものと、指示されるものの間には、必然的なつながりはありません。対応が整然としていればよいので、どの音形とどの意味が対応するかは「いい加減」です。

これを「言語の恣意性」と呼びます。 


 後者はよくあります。ウチの子は、入院中、吐き気がするのを「おなかすいた」と言ってエライ目にあいました。