2017年11月11日土曜日

生生生生生始暗


あるいは、魔法のカギ 


なんだか、家内が空海にはまっている。

日本に真言密教を伝えた人なのだが、宗教家である以上に、政治コンサルタントであり、教育者であり、プランナーである。最澄とくらべると、信仰の対象となるくらいのカリスマ性をもつ一方、経歴・人間関係などなんか胡散臭いところもないではない。

嵯峨天皇淳和天皇の信頼を得、大僧都となる。

表題の詩句「生生生生生始暗」は、淳和帝の勅に応じてつくられた『秘蔵宝鑰』序文の詩である。これを「教授、これを読んでくれ」と家内がもってきた。


東京大学蔵のものが、国文学研究資料館のホームページで公開されている。

【秘蔵宝鑰】  表紙
       

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写本であるが、カタカナの字体が新しいし、返り点も打ってあるので、訓点は近世のものだろう。漢字の四隅に声点が打ってあるので、もともとこれは音読したものである。

「万」に付されている声点は「○○」と濁音指示がある。「マン」ではなく「バン」であるから、唐代の長安音(漢音)で読むべきものである。仏教の漢字音は「男女(ナンニョ)」のように呉音で読むことを慣習とするが、真言・天台の一部の経典は、漢音で読まれる。

空海は、世界帝国である唐の都、長安の青龍寺に学んでおり、本場本家の中国語を伝えるわけである。もっとも、その後継者たちは、日本語ベースで理解する。すなわち訓読である。この写本に即して、訓読すると次のようになる。




悠々たり 悠々たり 太だ悠々たり 内外の縑緗 千万の軸あり。
杳々たり 杳々たり 甚だ杳々たり 道を云ひ 道を云ふに 百種の道あり。
書死(た)へ 諷死へなましかば 本と何んか為せん。
知らじ 知らじ 吾れも知らじ。
思ひ思ひ思ひ思ふとも 聖も心(し)ることなけん。
牛頭 草を嘗めて病者を悲しみ。
断菑 車を機て迷方を愍む。
三界の狂人は狂せることを知らず。
四生の盲者は盲なることを識らず。
生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く。
死に死に死に死んで 死の終りに冥し。



なんか奇抜な表現が並んでいるような気がするが、どのように読むか? 

まず、これは序なので、自分が著した『秘蔵宝鑰』という書物の導入である。『秘蔵宝鑰』は真言密教が真理の境地にあることを論じた『秘密曼荼羅十住心論』の要約である。「ひそかにもっている宝のかぎ」を意味する。「かぎ」は蔵の扉をひらくためにある。その序であるから、読者を真理の世界に誘うことばに相違ない。


詩は凝縮度の高い表現形式である。

つまり、そのまま読むのではなく、その表現が内包するもの、外延するものをイメージして理解するものである。内容を解説するには、パラフレーズすることが必要となる。くだいて、訳してみよう。



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悠々としてはるかである、悠々としてはるかである、たいへんはるかなことであるよ。  
わたしたちの前には、美しく装丁された仏教の経典(内典)、そして漢籍(外典)。  
なんと千万もの巻物がある。 そこにある教えは、きわめて膨大である。 
杳々として広大である、杳々として広大である、たいへん広大なことであるよ。  
人の道について説くものがあるが、人の道を説くのに、儒教・道教・仏教・小乗・大乗・顕教・密教・・・・実に、百種もの道がある。 そこにある教えは、きわめて広大である。  

しかし、もしも、その、書き残された書がなくなったり、言い伝えられた諷がなくなったとしたら、一体どうしただろうか?  
知らない、わからない、教えを学ばなかったら、わたしも道を知らないだろう。  
では、考えるか?  
たとえ、考えて、考えて、考えて、考えたとしても、聖人だってわからないだろう。  
知の蓄積があって、人はようやく道を知るのである。 
頭に牛の角がはえた神農という人がいた。 
その昔、人びとは食べられるものとそうでないものをよく知らなかった。そのため、毒物にあたって体をこわすものが多かった。神農はこれを悲しみ、自ら草を嘗めた。彼の体は透明なので、毒がはいっていると、内蔵が黒くなるのでわかるのである。彼は身を犠牲にして人びとを救ったのである。 

また、体が断菑のようと評された周公旦という人がいた。 その昔、越の南から周の王朝に朝貢してきたものたちがいたのだが、彼らは方角がわからなくなり、国に帰れなくなってしまった。周公はそれを哀れみ、指南車という車をつくって、彼らを故国へ帰したのである。  
人びとを救うには、そのような何かが必要であり、彼らのような人が必要なのだ。なぜなら、人は無明だからである。 
人びとが物を食い、子を生む、この欲界、 欲界を離れても、物と体に束縛された色界、 心の働きのみが残る無色界、その三界を人は輪廻する。 なぜなら、解脱できないからである。  
正しい悟りをもてないのだから、狂っている。 狂っているけれども、狂っていることがわからない。 真理を知る知恵がないからである。  
この世に生きるものにはさまざまなものがある。 母の胎内から出生するもの。 卵から孵るもの。 湿気の中から生えるもの。 業により忽然と出てくるもの。  
その四生の中には視覚のない生き物もいる。彼らは自分が視覚がないことを知らない。 それを知る目がないからである。 
この世の人びとは、生まれ、生まれ、生まれ、つぎつぎに生まれてくるが、その始めは暗黒である。それを知る知恵がまだないからである。 この世の人びとは、死んで、死んで、死んで、つぎつぎに死んでゆくが、その終わりは暗黒である。やはり、それを見る目がもうないからである。  
無明であることは、三界の狂人、四生の盲者とかわるところがない。  

この世に迷える一切の衆生を救う、神秘のカギ。それがこの本だ。



えらく長くなったが、これくらい説明しないと、理解できないんじゃないかな?
しかし、超要約すると、こうなる。


不幸なのはバカだから。 
勉強すればなんとかなる。 
オレが教える。以上。 



案外単純。( ̄〜 ̄;)





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